~Time ~自分サイズで暮らす

書ける時&書きたい時に書くブログ~文房具、文房具カスタマイズ、手作りのことなど趣味や暮らしのことなど主に備忘録的に

曼珠沙華 / 毒にも良薬にも





 先日久しぶりに自分のホロスコープの星の位置をみてみた。
結果は、わ~……という感じ。

逃げ場無しの所で無理な事もやっていく・・・四方八方が壁に囲まれてる、そんな図。



ところで。

この一つ前の記事で若干触れたように、
先祖の代からの縁はあったにせよ『信じてやっていく』と自分で決めて選んだとある信仰を自分の根っこ・軸に
私は暮らしている。
物事の全てを本質から観ることを常日頃意識して。

その為占い等によって心が乱されたり不安になるということは無くて、
『そういう視点があるのか~』という感じ。

星占いの分野として身近な雑誌にも掲載されているホロスコープやサビアンなどについては、
月の満ち欠けのような捉え方でゆるゆるみている感じかな。

私にとって太陽、月、星々は、
宇宙の分野・自然に連なるものとして大好き。

天体に浮かぶものは皆、物体・物質で・・・・・・月に至っては海の干満や出生にも関わりがあるなどとも言われ引力が介在しているのよね。

人体も物体であり
物質の集まりで構成されている。

月など天体(の引力の)影響が全く無いとは言い切れないのでは、と感じる。



話を冒頭へ。

皆、自分で選んだ処へ生まれてくる・・・・・・と私は思っているの。
例えそこがどんなに悲惨なところであっても、それすら喜びに変えていける力が人には元々備わっているよ、と。




それで言えば、
ホロスコープでどんなに窮屈で星の巡りが悪いとされた天体図であっても、私にとっては悪いことにはならないの、

占いというよりも

統計学のように様々なデーターの蓄積や、

例えそこに、引力の影響など何かしら具体的な物質・物体による影響が大なり小なり関わり、引力の関係の面からホロスコープを捉えた際によくない内容だった場合だとしても、

私にとって悪い意味にはならない。

私の場合、それら諸々の長短をも、『自分の傾向性としてほんの少しもその可能性がなきにしもあらずかも。』と、頭の片隅においておけばよいことかなと。



 ただ・・・面白いね、
天体の動き、
そこに描かれた図・解釈からどのように読み取って反映していくかが問われる世界なんだろうホロスコープも、
抽象的な表現のサビアンも。



自分の図と内容を久しぶりに読んでみて、
『なるほどな~』
『いろいろしんどいことが多いのがホロスコープでも出てるんですか。』と思った。(苦笑)



 世間の占いには、手相もある。

昔、手相占いを本格的に修行していた先生がなぜか小学校に居て、
『観てあげる。』と急に手をがっとつかまれ勝手に手相を観られてしまったことがあり言われた言葉は、
『へぇ~、珍しい手相をしているね、これは珍しい。ほぉ~』と。
まじまじと顔までみられ。(==)

当時まだ子ども自分の頃の私は、
どう受け取っていいものなんだかとてもとまどった。

そんな私は、手相の本に描かれている 仏眼 もある。
仏眼の手相がある人は霊感がある人に多いらしい。

うん、私もご他聞にもれず・・・今は無いけれど(ということにしておくw)
詳しくは書かないけれどそのことでは昔散々苦しいことがたくさんあった。(==)ドヨヨ~ン
信じている信仰があったからなお更に。
大別すると仏教の中の密教のように、(世間一般で表現する)霊感をむしろあってOKの宗派ならともかく、
そういう宗派ではない場合は、自分・他者の両方の為に信仰を根本にどんなに真剣に生きていても、他の同じ信仰の方々からは、『信仰心が薄い。』『やり方が間違っている。』と決め付けられてしまったり、否定されてしまったりもすることが時には起こるから。人によりけりでもあるけれども。
信仰をしているから全ての信仰者がみがかれている訳ではないのね、進んでいく段階がそれぞれにあるから。
苦しかった昔があってよかったと私は思ってる、
似たような方にその苦しみがどんなものか想像出来るし、袖振りあった場合に参考になるようなことをお伝え出来る場面が多々あったから。

 ちなみに。
世のどの信仰者であっても、人の群れである人間社会の中で暮らしている訳で・・・
どんなに悩みがあってもその悩み・悩みから派生していく苦に振り回されずに生きていく為に必要なことが説かれている信仰は、決して日常生活の暮らしから隔離されたものではなく人々の暮らしに根ざしたもので、
世の中の道理に沿いながら、時には不思議としか思えないことにも向き合える、一見すると矛盾することが矛盾無く成り立つ世界であるんだけれども・・・
何かしらの信仰をしている人の中に、片方にばかり傾いている傾向の人もいるの、
信仰をしていても、どちらかというと、
心の底では全く信じていなくて会社や仕事の感覚が本音で信仰者の仮面を被っている人や、
信じているけれどふわふわしと日常生活からかけ離れた価値観に囚われてしまって暮らしが成り立たず、信仰という言葉・世界観を逃げ場に使ってしまう人なども。
ここでも、信仰をしているから全ての信仰者がみがかれている訳ではないのね、進んでいく段階がそれぞれあって。
 ところで悩みというものは人と人とが触れ合う人間関係の場で派生することが多いでしょ?同時にあたたかな交流も。
逃げ出したいことがいろいろ出てくる人間関係の中に、自分が他者と一緒に成長していける因果もたくさん在るの。
人里離れた場所で人との関わりを断てば一見、わずらわしいことと関わることが減って心が穏やかになっているように思えるかもしれないけれども、それは、因も果も表面からほど遠い深い深い内面へ潜ってしまって現れにくくなっているだけなの。
だから、暮らしから隔絶し、人と人とを分断していくことを目的や手段としたものは信仰では無いと私は思う、人を人そのもの・人の社会からどんどん遠ざけていくのは、ただの遠回りである、と。
それでは、自分自身も他者も共に救えないし救われない。




 再度、話題を冒頭に。

<惑星の配置は自分でその配置を選んで生まれてきた> と捉えると私はしっくりきやすいかな。

手相に限らず、<自分に内在しているものが表面に出ているもの・出たものが手相や顔の相などである>と。

これらは私個人の捉え方。



<『○○の占いにこのように悪く書かれていたからそういう進み方になるんだ、駄目なんだ』という考え方では無い> の。

自分も他者も、語弊を恐れずに例えると、それぞれ各自が1本の幹だな~、と。

腕も脚も足も掌も、皮膚も・・・・・・全ての軸になっているのは幹本体で。

その幹の根幹は根っこの部分。

だから、掌(てのひら)の皺(しわ)である手相も、表情・輝きor曇(くもり)にも出る顔の相も、

根っこの健康状態や、幹本体の中身がにじみ出てきたものだなと、

私は感じてる。


つまり、幹本体の内容に変化があれば、

にじみ出るものも変わってゆくの。

結果、それらの変化は、生き方(の姿勢)、習慣、暮らし、人生そのものへの変化へも

波及していく

するとね、相も変わるの。^^




だから、

もし、何かしらの占いの結果で悪いことが書かれていて落ち込んでしまいやすい人がいたら、

そのことだけで『悪い方向へ行ってしまうんだ、駄目なんだ。』と決め付けてしまう必要は無いの。

『気をつけておこうかな~。人生何があるか分からないし。』位にして、

よいことが書かれていたら、『ラッキー♪』という風でよいんじゃないかな~。 ←もちろん私の私見。違う意見もあるかと思う。



 ドラマや物語でしばしば『運命』『宿命』などの言葉が踊ることがある、

『どんなに辛くても変えることは不可能だ。』というシーンを決定させる、

悲劇の装置として。

辛い場面等で。



どちらかというと私は感覚(や感性)の人で。

<広大な宇宙の中で奇跡的に地球が生まれ、

その奇跡の星にまたまた奇跡的に知的生命体が誕生し、進化の過程で現在の人類に繋がり。

その人類が集ういくつかの大陸の中で私は生まれ先の国としてこの日本を選び日本語を駆使している。

日本語を含む世界中の言語もあらゆる概念を表現するツールであり、

人の内面を完全に言語化出来ないことなどいくらでもあるだろう>・・・と私は捉えているので、

語彙(ごい)についての薀蓄(うんちく)は、脇に置く。



感じているのは、思っているのは、

・・・昔、観てきたことも・・・

<人に生まれてきた時に、
生まれ持って、ある程度決まってしまっている人生というのが在る。

同時に、
決まってしまっていた人生の在り様を・有り様を変えていける人生も必ず存在している

全ての人の中に>

自分の人生に納得いかないことがあるならば 自分が納得したい方向へ<人生を変えていける>よ

ということ。



今日の記事でちょっと書いておきたいなぁと思ったのは

このこと。


自分自身を活かすも活かさぬも 生かすも生かさぬも 
自分次第。

短い内容のつぶやきにしたとしても字数制限有りのTwitterでは連投になってしまうし、
読みたくない内容なのに目に入ってしまうユーザーさんには迷惑になりかねない。
でも自分のブログ内なら、閲覧者様がアクセスの有無を選択出来るから。



ということで

今日の残りの時間も

明日からの一日一日も 毎日を

Have a nice day! 素敵な毎日を!






f:id:hanagoromomo:20150506195358g:plain別名: 曼珠沙華  彼岸花について。(下記の引用はWikipediaより)
・彼岸花の名は秋の彼岸ごろから開花することに由来する。
別の説には、これを食べた後は「彼岸(死)」しかない、というものもある。
別名の曼珠沙華は、法華経などの仏典に由来する。また、「天上の花」という意味も持っており、相反するものがある(仏教の経典より)。
ただし、仏教でいう曼珠沙華は「白くやわらかな花」であり、ヒガンバナの外観とは似ても似つかぬものである(近縁種ナツズイセンの花は白い)。
・また、毒を抜いて非常食とすることもあるので悲願の花という解釈もある(ただし、食用は一般的には危険である)。
異名が多く、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあと呼んで、日本では不吉であると忌み嫌われることもあるが、反対に「赤い花・天上の花」の意味で、めでたい兆しとされることもある。日本での別名・方言は千以上が知られている。
「花と葉が同時に出ることはない」という特徴から、日本では「葉見ず花見ず」とも言われる。
・鱗茎は適切に用いれば薬になり、また水にさらしてアルカロイド毒を除去すれば救荒食にもなる。


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